
PROJECT MEMBER
技術の程度のチューニングについて 福島県飯舘村は、10年前の福島第一原発の事故によって全村避難を余儀なくされ、避難区域指定が解除されたあとも、村内の人口減少、過疎化が急激に進み、さまざまな地域課題に直面している。村の現状と将来を巡り様々な意見が飛び交う中で、舵取りは容易ではない。また、いまの飯舘村は村内外の様々な人間が行き交う場所にもなっている。被災者と支援者、当事者と非当事者。原発事故が様々な立場の違いを生み出し、村の姿を大きく変えたことは否定することのできない現実としてある。けれども、だからこそ今、飯舘村という一つの地域の未来に向き合っていくための場が必要とされている。 村内の中心地域に位置する旧コメリ飯舘村店は、震災以降、営業されずに建物だけが残されていた。その建物を使って、これからの村のあり方を思考し、実験・実践していく拠点作りが、手探りで始まっている。場所の名前は「図図倉庫」(ズットソウコ)という名前になった。いつまでも着々と、広い建物を生かしてさまざまなヒトやモノが集まり、行き交う場となる。そんな未来の実現を見通したとても良い名前だ。 図図倉庫の平面計画は、東西の両端にそれぞれコワーキングスペースとワサビ水耕栽培場を配置され、建物中央部にはサクランボの温室フレームを用いた天蓋を浮かせて場所のヒエラルキーを設定しつつ、基本的には小規模な家具や高さ2,600mmの可動式の壁を複数配置するだけの巨広大な空間を残している。今後、放射線・放射能の研究者による研究展示スペース、アーティストによる作品制作・展示を行う様々なスペースが設えられていく予定だ。 さまざまな人々、活動が建屋の中に同居するわけだが、研究者やアーティストを生業としている人々にはどこか共通した遊動感がある。彼らは土地に縛られることなく自由に場所を移動し、巡り合った場所を自身の”フィールド”として捉え、没入することができる。そして、没入することで、土地で生きる人々と協働する可能性が拓けてくる。震災後の飯舘村には、内のヒトと外のヒトとが、隔てなく協働して進んでいかなければならない切迫さと、先見的な眼差しがあった。 高天井でかつ平面的にも広い旧コメリ建屋空間を仕切るために有効な形として、農業用ビニルハウスのパイプを用いたアーチ型の架構形式が採用された。ビニルハウスはもちろん農業が盛んな飯舘村にとってありふれたモノであり、扱い方に熟達した人々も多い。クランプを用いれば建屋の既存の鉄骨部材への固定も容易である。ハウスのパイプを支えにして、コメの籾殻パッキングした自作の断熱材ユニットを並べ、壁、天井を充填していった。籾殻はこれまで畑の土壌改良材や家畜の敷料などに利用されてきたが、近年は廃棄物として処分されることが多い。けれども村内で容易かつ大量に手に入るので、これを建築部材として組み込む理があった。断熱性能は、断熱材の厚みのパラメーターを上げていくことが明らかに有効であるので、量を確保できることも重要だった。さらにパイプ架構の高さを上げるために、足元には150×105の木の角ログ材を積み重ねてゲタを履かせた。角ログ材は、震災直後、福島県内で応急仮設住宅として建設されたログハウス部材の転用品である。 村の中で見慣れた風景やモノを収集し、再編集していくことで、場を組み立てていくこの建設仕事においては、高度な技術よりも、風景やモノへアクセスする筋道を見つけることの方がはるかに重要である。つまり、そのリソースに近いヒトを探し出すための関係作りと言ってもよいだろう。モノとモノがどれだけ組み合わさり、ヒトとヒトの関係がどのようにして織り重なっていけばこのプロジェクトがさらに展開していくか。モノヒトの重なりの編み方を構想する戦略とイマジネーションが必要だ。そして、構想を実現させる手段として、「やさしい技術」、高度な技術を要さない建築仕事に可能性を見出す。あらゆるヒトが建設仕事に参加して、自分たちの普請事とし、各所のモノとモノの取り合いのディテールの中に自分自身の参加の痕跡を織り交ぜていく。建設仕事において、そんな「やさしい技術」を介在させるためには、設計計画と施工プロセスが表裏一体に、不可分な関係を目指さなければいけない。半ば抉じ開けるように、「やさしい技術」を確かな位置に据える工夫が必要であった。 (佐藤研吾)