
補足資料




空間を記述する方法はいくつかあるが、もっともオーソドックスなものは、幾何学的な構成やルールに込められた機能や構造、視覚的効果、または環境性能を解き明かし、それらがいかに合理的に、思慮深く配置されているかを説得的に語ることだ。こういった説明は、人びとの間で解釈を共有し、ズレのない建築像を与えてくれる。そして、多くの建築写真はそういった像を正確に捉えるものとして存在してきた。一方で、個人的な空間の経験を描写しようとすると、たとえ建築の専門家であっても断片的で曖昧な表現を避けることはできない。空間の記憶を思い出そうとすると、何気なく見たシーンや色、音や光の印象がぼんやりと脳裏に浮かぶ。このような個人的なイメージ群の蓄積があって初めて、人は空間に愛着を感じたり、自分のものとして捉えたりすることができるのではないだろうか。 武蔵野台地に広がる典型的な東京の住宅地に建つ、若い夫婦と子供ひとりのための住宅。敷地は比較的人通りのある前面道路と、幅2m に満たない路地に面している。道路側にこれといった特徴が無い一方で、路地側では周辺の住宅が庭をつくり、植物を育てることで、親密な雰囲気が生まれている。そこで、この家の「ファサード」を前面道路ではなく路地側にずらし、庭をつくって窓を設けることで、路地の雰囲気に貢献することにした。ファサードを剥ぎ取られた正面は、無機質な外観で内部の構成を覆い隠す。南側の隣地は空き地だったため、そちら側の窓を高窓に限定して隣地に建つ建物の影響を軽減している。内部では2階の天井を低く抑えて1階に4m程度の天井高を与え、限られた面積に立体的な広がりを与えている。外観の無表情とは対象的に、内部を特徴付けているのは象徴的な黒い筒による空間の分断だ。この大げさな代物は機能的にいえば螺旋階段として必要なものだが、見方によっては視線を遮る邪魔者のようにも映る。 そしてこの黒い筒の周囲を、それぞれ別の由来をもった装飾的なキャラクターたちが取り巻いている。たとえば、私道側の窓の上に設けた銀色の水平シリンダーは、高窓の光と庭の風景を拡散する反射板であると同時にパイプスペースでもある。その下の青い柱に貼られた鏡はキッチンからリビングの様子を伺うための道具だ。キッチンやシリンダーなどの北側の要素は、南側の内壁に平面的な塗り分けとして反転、転写されている。一方で、小部屋に分割された上階では筒が各部屋に顔を出し、それぞれの部屋の相対的な位置を指し示している。引き戸を開放すれば筒はひとつに繋がり、空間に回転運動を生み出す。さらに、家全体に装飾的要素として色彩が散りばめられている。1階は両端の赤いボックス、水色のキッチン、塗り分けた壁、ブラウンの床、銀の天井。2階は黄色の床、水色のカウンター、赤と青の扉など。時間ごとに異なる光によって照らされることで、場所によっても時間によっても新鮮な表情を見せてくれる。その中にあって黒い筒は常に、視野の中に「見えていない領域」として現れる。 装飾された空間は、黒い筒という視野の欠損によって部分的にしか把握されず、視点が変化することで無限の断片的なイメージ群を生み出す。一方で、日々の生活をとおしてイメージが脳裏に蓄積され、住人にとっての空間の記述がより具体的なものになってゆくと同時に、黒い筒の存在は意識されなくなり忘れられてゆく。断片的なイメージの群れによって、建築の象徴性が背後に退くのだ。そのとき初めてこの筒は、家と住人にとってアイデンティティの一部になるのではないだろうか。人が視界に入る自分の鼻を意識しないように、住人もいずれこの黒い筒を透明に眺める日がくるだろう。